出店者名 ヨモツヘグイニナ
タイトル 魚たちのH2O
著者 孤伏澤つたゐ
価格 800円
ジャンル JUNE
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紹介文
色覚の退化してしまったこの目には、空と海の青は見分けがつかない。


海からほど近い寄宿舎、オートマタと噂されるクラスメイト、四人だけのクラブ活動。
「いつか」がまだとおりすぎなかったころの少年たちの物語。

『Last odyssey』の前日譚です。
『Last odyssey』ウェブカタログ↓
http://necotoco.com/nyanc/amabun/bookview.php?bookid=31

「柳臣、烏丸だよ」
 伊呂波がぼくの名をしっている! 
 あの衝撃は、どんな言葉でも表しきれない。
「しってる」
 柳臣はぶっきらぼうにうなづいた。
 完全に退場のタイミングを逃してかたまっているぼくを伊呂波が手招きする。
「いいの?」
「いいよ」
 柳臣がテーブルを飛び降りる。すれちがいざま、眉根をよせて一瞥された。心もとないサンダルの足音が階段を下りてゆく。
「柳臣は気恥ずかしいんだよ」
 伊呂波はくすっと小さく笑った。
「機械を人間扱いしているところをきみに見られてしまったから」
 はじめてまぢかで聞く伊呂波の声はため息を含んでいて、こんな風に吐息を交えて声を吐きだすひとが機械仕掛けの人形であるものか、と思った。
「きみと話をしてみたかった」
 吸いこまれそうに奥の深い、ただ一点だけを見つめる瞳。伊呂波は窓に首をかたむけた。
 日は沈みかけていて、窓枠のしたのほうは赤みの強い紫色だった。空の色で時刻をはかるのは無謀な行為だが、門限をたしかめるために腕時計を身に着ける、なんて無粋な真似はぼくはしない。
「今日は空が低い」
 伊呂波は宙に線をひいた。
 ああ、そうだ。伊呂波は観測鏡がなくともS線を見られるのだった。
 周知の事実はこのときはじめて現実味を帯びてぼくに迫った。
 証拠にぼくの裸眼では決して見えぬものが、銀色に輝いて顕現するような錯覚。
 おどろいてまばたきをする。
 わずかに残った平坦な空の青には、金色の影をまとった雲。学舎のどこよりも広い空は、海とつながって色彩もかすんでいる。
「柳臣とぼく以外に、ここへくるもの好きがいるとは思わなかったよ。……きみで、よかった」
 最後の言葉を、伊呂波は大切そうにつぶやいた。
「この時間、となりの部屋がうるさいんだ。柳臣が癇癪を起すまえにここへ来るのさ。ここには世界の秘密が沈黙しているだけだからね」
「邪魔してしまった?」
「そんなことはないよ。ぼくたちこそ、きみの邪魔をしてるかも」
「本を読みにきたわけじゃないんだ。―ただ、すこし、書きものをしようかと思っていただけで」
 部屋を出るときにとっさに鞄にあたらしいノートをつかんできたことを思い出して、苦しみ紛れに答えた。
「きみはこれに、五十六億七千万年前の魚たちの夢を書き記すつもりだったんだね」 


"あの頃"から何億年? 記憶と再会する物語。
 子どもの頃と今の自分は、べつの世界を生きている気がします。知識を得、常識を覆し、かつて視えていたものを失う。誰かと出会い別れる。わたしたちは知らず革命し、変質してゆきます。

 烏丸、伊呂波、海沙貴、柳臣。『魚たちのH2O』は四人の少年たちと水蓮博士の物語です。学園は寮制で、ふたりずつルームメイト。四人は科学部というクラブ活動をともにしており、水蓮は顧問です。クラブといっても具体的な活動が決まっているわけではなくて、理科室でちょっとした観測をしたり夜に星を見上げたり、ときには水蓮にドライブに連れて行ってもらったり。ささやかなやりとりの繰り返しです。
 本作でえがかれる世界は、わたしたちの住む世界とは異なってみえます。「色覚の退化してしまった目」、「ぼくたちのH2Oは海水と癒着すれば溶けだしてしまう」。ずっと先、滅んでは生まれを繰り返した十億年後でしょうか。けれど隔りの手ざわりはさりげなく、学生時代の日記を読み返すような距離感。
 おとなしい子、不思議な子、活発な子、ケンカっぱやい子、イレギュラーな大人。「たがいにかくしておきたいものを探しあわないのは暗黙の了解だ」、「二人で歩いている沈黙がなんとなく気まずくて、わけもなくあやまってしまった」。わたしは男の子でもなかったし寮にいたこともなかったけれど、かつて一緒にいた友人たちのことを思い出しました。
 伊呂波は鍵やナットなど、なんでも食べてしまう。クラスでは、彼がオートマタなのではと噂されていて……。物語はひたひたと訣別へ向かいます。
 個人的には、この物語が烏丸の視点からえがかれていることがとても愛しく思えました。「ぼくはいつも、一拍遅い。」と心中で述べつつ、周囲をじっと見つめ、そうっと距離をはかってゆく。

 かけがえのない何かを交わした誰かや日々はたしかに何億年もむかしのことで、とっくに滅んでしまった。かさっと軽いグレーの紙に綴られた物語は幻想的な筆致で、忘れていたいろいろを優しく差し出してくれます。わたしたちはいつのまにか物語/記憶のなかにいて、自分や誰かと再会するのです。
 本作は『Last odyssey』と同じ登場人物で前日譚のような位置づけ。わたしは『Last〜』→『魚たち〜』の順で読みました。あらかじめコーダを知ったうえで聴くソナタは、たいへんきれいで切ない。
推薦者オカワダアキナ