キャンディと王様―第二話・女の子の草野球
にゃんしー
 千船女子高は、尼崎市南の工場地帯にある。
 南西を阪神なんば線、北を阪神本線、南東を左門殿川に区切られたデルタ地帯である。
不便である代わりに地価が安く、千船女子高以外は大型の工場が並んでいる。
 町には絶えず工場の重低音が響き、授業に飽きた際にはそれを子守唄代わりに居眠りをする。グラウンドをぐるぐると十数周走った後、膝に手を当てて大きく息をすれば、潮気に交じって酸味の強いケミカルな匂いがする。
 この町が好きだった――と云うには、彼女たちに他の選択肢があったわけではない。千船女子高は、地域の標準的な女子――悪く云えば、何の取り柄もない女子――が通う、公立校である。当たり前のようにこの町に育ち、当たり前のように千船女子高に進学した。
 周囲から隔絶されたデルタ地帯がそうさせているのだろうか、年齢の割にはどこか幼い、純粋な少女が多かった。周囲に男子校はあったが、交流はほとんど無く、彼氏のいる生徒も極少なかった。そこに至るには、同世代の女子よりも、何か大きなものを乗り越えなければならないかもしれなかった。

 15時過ぎ、千船女子高の生徒達がめいめいに帰宅する。紺色のプリーツスカート、白色のブラウス、紺地に白色の二本線の襟に、やはり紺色のリボン。スタンダードなセーラー服であるが、校則がゆるかったため、皆好き好きに着こなしを楽しんでいた。スカート丈は全体的に短い。派手ではない程度に、髪を染めたり、化粧をしている生徒もいる。靴は市内のABCマートで買ったビビッドな色のスポーツシューズが好まれていて、新色が出るといち早く購入した女子がそれを自慢する。鞄は無印良品のものが大人気であったが、彼女たちのお小遣いには高価であるため、代わりに地元の杭瀬商店街の高田カバンが愛用された。ここのカバンは、関西風に云えば「パチもん」ではないかというほど、無印良品のカバンに良く似ている。これに缶バッチやキーホルダーを付けたりして、自分だけのカバンにアレンジするのだ。
 自由な校風の割には、落ち着いた恰好をした子が多かった。身にそぐわない恰好をしていると、その点について触れてくれる大人がいたからだ。
 例えば買ったばかりの大きなピアスを揺らしながら、意気揚々と帰り道途中の売店に入る。工場に隣接したそこには、休憩中の工員が数名缶コーヒーを飲みながら冗談を交わしていて、一人が目ざとくピアスを見つけ、すぐに話しかける。
「そのピアス、似合ってないで」
 このように、注意をするのではなく、率直に言う。きょとんとしていると、さらに畳み掛けてくる。
「耳が悪目立ちしてんねんな。せっかくかわいいのに」
「耳を、こう、隠したほうがええんちゃう?」
「そやねん」
「髪が重いから、シュシュで上げたほうがええな」
「キャンドゥでかわいいの売ってたで」
「あそこ遠いやん。お前買ってきたれや。ボーナス出たやろ?」
「自分、ボーナス三千円しかないっすよ」
「余裕で足りるやろ」
「もうスロットでスリました」
 といった具合に。女子もなんとなくそれが正しいような気がして、ピアスを外し、シュシュを買いに行ったりする。千船女子高の生徒は、工場の工員を始めとした地域の住民によっても、大切にされていた。

 千船女子高は、部活は特に盛んではない。グラウンドが小さいこともあるだろう。文化系の部がいくつか活動をしているくらいで、多くの生徒はすぐに帰宅をする。地域の住宅地はほとんど、阪神本線を越えた北側の杭瀬にあるため、幅の広い産業道路にはみ出しながら、みな北へ向かう。車の往来は少なく、時折走るのは大型のトラックばかりだ。この時間は千船女子高の下校時刻に当たることを知っているため、ゆっくりと走らせる。クラクションを鳴らすのは、注意ではなく、一種の挨拶である。プアーン、という抜けた音が鳴ると、女子たちは笑い、ふざけ合いながら、怠れた昼過ぎの工場地帯に彩りを添える。

「ばいばーい」
 遠藤弥勒は校舎の玄関で友人と別れると、一人皆とは逆方向、川沿いの道を南に歩いた。濡れたような髪が、潮風に合わせてかすかにそよぐ。
 遠藤は、千船女子高野球部の三塁手である。もちろん正式な部活動ではないので、野球サークルとでも言うべきだろう。校内に部室はないが、部室代わりの建物を川沿いに持っていた。これは野球部が創設された今年の春に、遠藤の父の友人に作ってもらったものだ。
 遠藤の父は、地域の工場で作業員として働いている。収入が特に良いわけではない上、七人の子どもを抱え、かなり貧乏な家庭であった。その代わり、父には不思議な人間関係があった。市会議員に弁護士から、骨董商や漫画家、板金工、経営者、ホームレス、果ては明らかに堅気ではない人間まで、どこで知り合ったのか到底想像がつかないほど、雑多な人間がしばしば家に出入りした。彼らは押しなべて遠藤のことを娘のようにかわいがってくれていた。遠藤が熱燗を作りながら、部室について相談をしたとき、すぐに部室をこしらえてくれたのも、そんな父の仲間たちだった。打ち捨てられた倉庫を改良したため、見た目はボロボロではあったが、電気に水道、温水シャワーまで、なかなかの設備が揃っていた。

 千船女子高すぐ傍の川を南にしばらく歩くと、阪神なんば線とぶつかる辺りにトタン屋根のバラックが建っていた。屋根の排水ダクト下には水たまりが出来ていて、その傍には縫い目がほつれた硬球がたくさん青バケツに入っている。その横に、プリントのくすんだ金属バットが一本立てかけられている。引き戸の横には、大き目の廃材に黒マジックで「千船女子高野球部」の文字。遠藤は、水気を失って木のヒダが浮き出たバラックの壁に背中を預けると、部室傍を流れる川に目を遣った。
 川の名前は、左門殿川と云う。その流域長はわずかしかない。少し遡ったところで神崎川から分岐し、またしばらく下ったところで再び神崎川と合流するからだ。左門殿川という名前で呼ばれる部分は、2㎞のみである。それでも千船女子高の生徒たちにとっては、学校のすぐ傍を流れ、校舎から望むことができる川として、身近な存在だった。
 遠藤は、湿り気を含んだ大きな瞳を細くし、川の向こうをぼんやりと眺めた。左門殿川と神崎川とに囲まれたその洲には、佃という地名がつけられている。しかし千船女子高の生徒たちは、みなその洲を「千船」と呼んだ。
 「洲にある唯一の駅名が千船だから」というもっともらしい説明が付けられていたが、それには反論がある。駅の名前は「ちふね」ではなく「ちぶね」と読むからだ。また、前者は「ふ」にイントネーションがあり、後者は「ち」にイントネーションがある。それでは、「千船」とは何なのか。なぜ左門殿川を挟んで向かいにある高校に、「千船女子高」という名前がつけられているのか。
 鈍い色を帯びて工場用水が流れる左門殿川を見ているとき、遠藤にはその理由が分かる気がした。この川を流れる風は、含んでいると思う。工場の煙、阪神高速の排気ガス、高架鉄道の音、潮気、それだけではなく、少女たちがこの川を越えて「千船」には至らせまいとする何かを。
 かつて、周囲が望まない子を妊娠した千船女子高の生徒が、腹を切ってこの左門殿川に飛び込んだと聞いたことがある。彼女は、辿り着けたのだろうか。遠藤はふいに吐き気を覚えたが、呼吸をするのを忘れるほど千船に見入ってしまっていたためで、この夏、遠藤はまだ処女だった。
 部室内からピコーンピコーンとコンピュータ音が聞こえてくることに気付いて、遠藤は頭を振って意識を戻し、部室の引き戸をゆっくり開けた。

 部室の奥では、むき出しの蛍光灯の下で、セーラー服の女子が深くソファに腰を下ろしていた。黒いストレートの長い髪がソファの背もたれにかかり複雑な紋様を描く。まくり上げられたブラウスの半そでからは丸い肩が覗いていて、日焼けした腕に比較してはっきりと色白い。白いハイソックスが床に投げ捨てられていて、薄い小麦色の素足を行儀悪くちゃぶ台の上に乗せている。時折足を動かすと、短めのプリーツスカートがだらくなく捲れ上がる。千船女子高野球部エース・乙彼若菜だ。
「乙彼―、何しちょるん?」
「マリオカート」
 しばらく間を置いて、乙彼が上の空のまま答える。口元にはチュッパチャップスを咥えていて、軽快なマリオカートの音楽に合わせて揺れる。ちゃぶ台の上には、食べ終えた後の白い棒と、カラフルなセロファンが数個並んでいた。
 遠藤はそのゴミを拾うと、ゴミ箱に捨て、冷蔵庫を開けた。ほとんどがスポーツドリンクで埋まっていて、それぞれにマジックで部員の名前が書いてある。紙パックのジュース類は共用で、徴収したわずかな部費で買い出しにいく。これは元々はマネージャーの役目であったが、安い卸問屋について遠藤に広いツテがあったため、今は全て遠藤に任されていた。
 紙パックの牛乳を取り出すと、透明なグラスに注ぎ、くっと飲み干す。汗が一筋、白い首元を流れていく。
「白。乙彼、下着見えちょんで。やーらしー」
 遠藤が笑いながらそう言うと、乙彼は足を軽く上げ、
「サービス」
 と表情を変えないまま言った。
 人に対する関心が薄いのか、乙彼が会話に加わることはあまり無く、こういう冗談を言うことも少ない。ゲームをする時など、たまにだけ隙を作るように素の部分を見せることがあった。
 それが嬉しくて、遠藤は乙彼にくっ付くようにソファに座りこんだ。ぼろぼろのソファから、埃がぶわっと舞う。
 ――ねー、もうすぐ夏休みじゃん?乙彼ってどっか行く?海ってここからじゃとどこが近いんかねえ。お金ないけえさー、あはは。自転車って結構遠くまで行けるじゃんねー。ていうかむしろ、そういう旅行みたいなのが楽しいじゃんねー。
 乙彼は目線をマリオカートに預けたまま、時々だけ返す。
 ――あー、うん。あー、うん。いや、どこも行かないでしょ。暑いし。だるいし。海てなんかあんの?家が一番だよ。自転車?いや、いいわー。あはは。あっつそー。
 最後に乙彼が、ゆったりとしたセーラー服のリボンをさらに緩めながら、
「千船の夏なんて、暑いだけだよね」
 と怠そうな声でまとめのようなことを言い、しばらく静かになった。高い位置に設置された網戸の傍で、扇風機がカラカラ音を立てて回っている。……クーラー、欲しいなあ。お父さん、また貰ってきてくれるかな。

 外から、大声の歌が聞こえてきた。これはたぶん、AKB48の「ポニーテールとシュシュ」だ。音はずいぶん外れているが。大きな音を立てて引き戸が開いた。
「おおっ、マリオカートやってるやん!」
 どかどかと、二塁手・宮本青春が入ってきた。最近の猛暑で、一段と日焼けしたように見える。ブラウスを乱暴に脱ぐと足元に投げ捨て、遠藤を押し込むようにソファに座った。
「ちょっとー、狭いですよ。つーかまじ暑いし」
 二人掛けのソファが乙彼・遠藤・青春でぎゅうぎゅうに埋まり、乙彼は非難の声を上げた。しかし青春はそれに構わず、乙彼のプレイに注文を付けている。
「なんか、いい匂いするねえ」
 乙彼と青春に挟まれていた遠藤が、ふいにそう言った。
「そうか?汗の匂いしかしいひんぞ」
 青春がそう返す。
「じゃなくてさ、なんか女の子の匂いせん?」
 遠藤がそう言うと、青春はしばらく鼻をひくつかせた後、こう返した。
「全然分からんし。なんやねんその『女の子の匂い』て」
「ほら、なんかミルクみたいな甘い匂いするじゃん。私好き、この匂い」
「はあ?つーかさっきからでっかい胸が当たっとんねん。この匂いと、違うんかい!」
「痛い!つーまーむーなー、乳首を!」
 遠藤と青春がぎゃあぎゃあ言い合っている間に、乙彼は距離を取るようにソファから尻をずらし、そのまま床に座った。コントローラはその間、ずっと動かし続けている。
 部内で一番おちゃらけているのが遠藤と青春で、この二人が集まると漫才のようなものが始まるのはいつものことだ。度を越して怒られたこともしばしばある。一番は、学校の掃除用具入れに性風俗雑誌を溜め込んで回し読みをしていた件だ。野球部員を始め生徒は大爆笑だったが、親まで呼び出された遠藤・青春はなかなか消沈していた。なお、この件で親を初めて見て皆が知るところになったのだが、青春の家は相当の富豪という。その点について青春は触れられることを極度に嫌がったし、それを示唆するような行動を以前も以降も見せなかったので、殆ど無かったことになっている。

 また引き戸が開き、遊撃手・東出茜が入ってきた。四角い銀縁メガネの奥の目が、幾分か冷ややかである。片手には、金属バットを持っている。
「誰ですか? バットを外に出したまま片付けなかったのは。青春でしょう?」
 青春が立ち上がり、一重まぶたのきつい目をますます吊り上げると、きっと睨む。
「うっせえなあ。何私のバット勝手に動かしてんだよ」
 青春が眉間を上げて凄む。が、東出は目線を合わせたまま、動じない。静かにバットをビールケースに立てかけた。乙彼は「こいつら、めんどくせー」と小声で呟くと、青春がいなくなったソファに座り直し、マリオカートを続けた。
 遠藤が、取り成すように言う。
「東出、早く来るの珍しいねー。今日は勉強してこんかったん?」
「帰ってからやりますから」
 東出が、参考書の多く詰まったボストンバッグをどすんと床に置き、そう返す。
「お前なあ、勉強ばっかしてると、アホになんぞ」
 青春が声を上げる。
「つまらない人生を送ってる人には分かりませんよ。それより何ですか、その格好」
 上半身にスポーツブラだけを付けた状態の青春に気づくと、東出は手入れのしていない太い眉をひそめた。
 青春と東出はしばしば言い争いをしていた。元々はそれほど仲が悪かったわけではない。何しろ、東出を野球部に勧誘したのは青春で、青春に野球を教えたのは東出なのだ。
 青春は中学まで陸上部だった。千船女子高には陸上部が無かったため、それに代わる形で野球部に入った。青春が夜の公園で素振りをしているところを、塾帰りの東出が見つけた。東出は高校では野球をするつもりはなかったが、中学までなかなか強豪のボーイズリーグに所属していた。
 興味本位の気まぐれだったか、あまりにひどい青春のスイングに見兼ねたか、東出が青春に二、三指導を入れた。元々、頭脳派の野球をしていた東出である。その指導は十分に的を捉えていて、青春のスイングはすぐに向上した。
 それに感動した青春は、殆ど力ずくで東出を野球部に加入させた。東出は嫌々ではあったが、青春に対する母性本能のようなものがあったのかもしれない。野球部に入部し、遊撃手と青春のコーチを兼任した。
 青春の技術はめきめきと伸びていった。彼女のセンスと、陸上部での経験をベースにした身体能力と、それからもちろん東出の適切な指導ゆえだった。
 しかしそれと反比例して、青春と東出の仲はどんどん悪くなっていった。東出の指導に対し青春が反発することが増え、また逆に青春が東出に指導するようになったのである。元々青春は感性的で、東出は知性的である。また青春に言わせれば、「東出は小心者」、東出に言わせれば、「青春は大雑把」。対立は、必然と云えた。
 それでも、ほんの時々ではあるが、彼女たちは不思議な「繋がり」を見せることがあった。例えば、普段悪ぶっている青春が、たまに東出に謝るときには、妙にしおらしく女の子らしい。例えば、他の人と会話するときには目線を決して合わさない東出が、青春とケンカをするときには真っ直ぐに目を見つめる。また、青春は東出の悪口を、東出は青春の悪口をしばしば言ったが、お互い他人が言った悪口に対しては、決して乗ることがなかった。

 また引き戸が開き、セーラー服の女の子が二人入ってきた。
「やっほー。あっマリカしてる!いいなー」
 小さな手をひらひら振りながら、一塁手・佐々木悠が入ってきた。甲高い声を上げ、早口で喋る。背がずいぶんと低い。色白く細い脚が、短いスカートとスニーカーソックスと合わせてますます長く見える。
「みんな、練習しないの?」
 それを追って、ずいぶん背の高い女子が入口をくぐるようにして入ってきた。右翼手・小比類巻花である。のんびりとした声で、動きもゆっくりしているが、身体つきが逞しい。広く厚い肩と、筋肉質の太い右腕を伸ばして、バットを数本軽く持ちあげた。
 この対照的な二人は、子どもの頃からの幼馴染であるという。

「水樹と海は校長に呼び出されてましたよ」
 東出がそう返答した。
「キャプテンとマネージャー無しかー」
 青春はそう言い、オーディオコンポ横のCDケースを漁り始めた。

 神田川水樹は千船女子高野球部のキャプテン兼捕手で、青井海はマネージャーだ。二人が校長に呼び出されるって、いつものアレじゃなあ。遠藤は、牛乳を飲み干したグラスを水で濯ぎながら思った。非公式のサークルを学校公式の野球部に昇格させる話は、前からもらっていた。千船女子高野球部には、兵庫・大阪の草野球シーンでは知らない者がいないくらい、それだけの実績がある。
 だけど、学校公式の野球部って、めんどくさそうじゃなあ。遠藤は「草野球」が好きだったし、他のメンバーもそうだったはずだ。
 遠藤は、部室内を見渡す。オーディオコンポ横では、青春が大好きなAKB48の曲をかけながら音程の外れた歌を歌う。東出は英語の参考書を開きながら、声が大きいと青春に注意する。小比類巻と佐々木はベンチに横並びに座って――たぶんいつもの妄想ばかりの恋バナだろう――楽しそうに会話をしている。机の上には、パーティー開きされたポテトチップスと、グラスに注がれたサンガリアのアップルジュース。部室の奥でマリオカートをしている乙彼は、いつの間にかヘッドフォンをつけて自分の世界に入っていた。
 この雰囲気が好きなんじゃなあ、遠藤はそう思う。ゆるくて、楽しくて、ちょっと危うくて、どきどきして。それが私たちの、草野球だった。

 気が付くと、部室内に怒声と悲鳴が上がっていた。声の主は、青春と東出。取っ組み合って、コンポの電源を奪い合っている。佐々木はそれをはらはらして見ていて、小比類巻は、ポテトチップスの袋を掴んで残りを全部飲み込んでいた。

 ダーン、という大きな音を上げて引き戸が開き、部室内は静かになった。
「おつかれー」
 入ってきたのは、キャプテン兼捕手・神田川水樹と、マネージャー・青井海だった。水樹は、見るからに苛立った顔している。海は、困ったような顔で笑っている。
 ――やっぱり、部活動に昇格させる話じゃったんじゃなあ。
 水樹は、ショルダーバッグをソファに叩きつけるように投げた。バッグは大きくバウンドすると、乙彼の頭を直撃し、ヘッドフォンが落ちた。

「あにすんのよバカ!」
 乙彼が大声をあげた。ニンテンドー64の電源を切り、コントローラを持ったまま真っ直ぐに立ち上がる。
 乙彼がこうして声を荒げることはほとんどない。部室内が静かになり、皆の視線が乙彼に集まる。苛立った表情を浮かべていた水樹すらも、素の顔に戻った。
 乙彼は一人ひとりの顔を睨みながら、早口で捲し立てる。
「花、ポテチ食いすぎ!佐々木、恋バナうざい!青春、歌うな!東出、勉強なら帰ってやれ!水樹、キャプテンでしょ、どこ行ってたのよ自覚持ってよ!遠藤!」
 乙彼は遠藤の顔を睨むとしばらく黙り、目線を胸元に変えてこう叫んだ。
「……胸でかすぎなのよ、この爆乳!みんなのせいで、キノピオがショートカットし損ねたでしょー!」
 部室内が、一気にしーんと静まりかえった。
「あはははは。あはははは」
 その笑い声で皆が振り返ると、部室の入口のところで、青井海が腹を抱えて笑っていた。
「乙彼がゲームすると人格変わるの知ってたけど、ショートカットはないでしょ。やだもー、おかしー」
 大きく膨らんだポニーテールを揺らしながら、ころころ笑う。
 乙彼は気まずそうに口を尖らしていて、耳の先が微かに赤い。海は、乙彼の顔を覗き込んで、ゆっくりと喋る。
「大丈夫だよ。千船女子高野球部で、仲直りする方法、知ってるでしょ?」
 乙彼と水樹が目を合わせる。海は、にっこりと微笑んで言った。
「勝負、やろうよ」
 
 水樹がユニフォームに着替え、金属バットを持って出てくる。右打ちで、バットを数回素振りする。風を切る鋭い音に、青春の、おおっ、という声が上がる。フルスイングをモットーにした神主打法で、スイングスピードはチームで一番速い。ホームランこそ無いものの、遠くに飛ばす力と技術では、小比類巻とチーム一、二位を争っていた。チームの不動の四番打者である。
 乙彼も次いでユニフォームに着替え、ボールで赤色のミットを叩きながら出てきた。
「水樹、私に勝てると思ってんの?今まで、一度も打てたことがないでしょ?」
 乙彼もこの頃には冷静さを取り戻していて、いつものように冷ややかな口調で、相手を小馬鹿にしたように喋る。
「今日こそは打つし。ウチが打ったら、土下座しろよ、土下座」
 水樹が強い口調で言うと、乙彼は鼻で笑う。
「土下座だって。じゃあ水樹、今までの分、三十回土下座してよ」
「三十回も負けてないやろ」
「どっちでもいいよ。土下座でも何でもしてあげるから、ちゃんと打ってね、『王様』」
「お前こそ、ちゃんと投げろよ。言い訳できるように、手抜くんじゃねえぞ、『キャンディ』」
 乙彼のことを「キャンディ」、水樹のことを「王様」と呼ぶ人がいる。片やエース、片や四番である。それぞれにある種の敬意を表する形で使われる呼称であるはずだが、お互いをそう呼び合う際にはその真逆だ。
「ほらほら、三打席勝負ね。私が審判するから」
 海がそう言い、二人の肩に手を置く。野球部マネージャーの彼女は、チームをまとめる存在だった。水樹と乙彼、青春と東出など、チーム内での対立は絶えなかったが、野球、それから、海という共通項を持って繋がっていた。
 キャッチャーは、普段三塁手の遠藤がやることになった。その後ろに、海が立つ。
「プレイ・ボール!」
 海のやわらかな声が、夏の空に高く上がる。
 
 一打席目は、緩急とコースをうまく使った乙彼の勝ちだった。
 初球、内角低めへのスローカーブ。二球目、外角高め直球。三球目、内角低めシンカー。四球目、また外角高め直球。初球と二球目がストライクで、三球目がボール。四球目は、ストライクだった。一度もバットを振らせず、見逃し三振。
 二打席目は、初球から水樹がヤマを張っていった。内角低めへのストレートを、腰をひねって強振。ボールはグラウンダーで三遊間方向に飛び、トップスピンのかかった打球は堤防のコンクリに張り付くように跳ねて止まった。
「ヒットやろ、これ!」
 水樹が吼える。乙彼は何でもないように、東出を指さして言った。
「東出なら取れてたでしょ? あれ」
 遊撃手の東出は眼鏡を整えると少し考え、凛とした声で言った。
「あのコースの球を引っ張るのは分かりやす過ぎますよね。普通に正面に回って取れてますよ」
 乙彼が、そのまま表情を崩さずに言った。
「どうすんの。あんなしょぼいゴロで勝ちって言うの?」
 水樹が叫んだ。
「もう一打席や!」
 初球、内角高め直球。水樹は強振するが、タイミングが合わない。ストライク。二球目、外角低めへのシンカー。これはボール。
 三球目である。水樹はこの打席、スローカーブだけを待っていた。相手の決め球を打ち、長打にする。それが、千船女子高野球部四番としての責任だと思っていたし、またその通りにしてきたことも、何度もある。
 しかし、水樹が四番なら、乙彼もまた、エースである。この打席、乙彼は、決め球であるスローカーブを投げることを決めていた。腕をかかげると、スリークォーターのゆっくりとしたモーションに入っていく。
 三球目、スローカーブ。70㎞/hも出ていないような、ゆったりとしたボールだ。ストライクゾーンの外から内へ、ゾーンの四角形の最端だけをかすめていく、乙彼が最も得意とするコースである。右打者に対しては、内角低めに当たる。水樹は腰をひねり、最短コースで強振する。前でとらえるのは、内角打ちの基本である。タイミングは合っていた。が、ボールはいつもよりも深く沈みこみ、ゾーンに入ることなくバットの下をかすめた。明らかなピッチャーゴロだった。
「あー」
 水樹が、大声で叫び、対岸に跳ね返ってハウルする。工場の音はキンキンと高く、水樹の低めの声とは干渉せずに、狭い左門殿川の河原を一時支配した緊張を解き放った。

 誰ともなく、川沿いの道を南に下るいつものランニングコースを走り始めた。一番を走るのは、今日も俊足の佐々木。次に必死な顔をして元陸上部の青春。遠藤は、どちらかというと後ろのほうを走っている。国道43号線に並ぶ大型トラックの隙間、夕陽が見えたような気がして、立ち止まりふと振りかえる。汗がいくつか、頬をつたっていった。夕陽に見えたのは、信号だった。それが青に変わり、トラックが動き、遠藤も走り出す。夕陽には、まだ早い。少女の夏は、まだ長い。

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