ポエムの墓―前章・国府市
にゃんしー
 その姉妹は、父親のことを「あのひと」と呼んだ。


 浴衣を着た姉妹が、田んぼ沿いのひび割れたアスファルトを歩いている。
 空は青いばかりで、ところどころ花曇、つまりありふれた四月の白昼の光景。
 特別なことなど何ひとつない道を、姉妹が歩いている。
 
 姉・清水玲は、ヴィヴィッドな赤色の浴衣の裾を深く折り、ミニスカートのように細い脚を見せつけている。春のやわらかい太陽の光は、肉付きのよい太腿を露わにする。元陸上部。怪我と受験勉強を理由に、高三となった春に早めの引退をしたばかりだ。200m女子の県高校生記録を持つ彼女の引退を、周囲は「早すぎる」と惜しんだ。陸上をしている子にしては、肌はずいぶんと白い。トラックの先頭を疾走する姿は白狼のようで、フィニッシュを決めた後にタイマーを振り返り喜びを隠さないヒロイックな姿は、他校含め女子の人気を集めた。しかしその実「走るのが好き」なだけの女の子で、今はナイキのシューズを左手に抱え、あたたかくなったアスファルトの感触を素足で楽しんでいる。右手には飲み干した後の氷結果汁。酔いの回った足取りは軽やかで、しかし危うく、路傍の草むらに足を踏み入れたタイミングで、空き缶を田植え前の田んぼに投げ込んでみせた。後ろを無邪気に振り返り、大きな声で笑う。
 
 妹・清水愛は、呆れた顔でその様子を見ている。黒い落ち着いた模様の浴衣をお手本のように綺麗に着込んでいて、小振りな桜花で装飾された草履を歩きにくそうに前に進める。草履が砂を噛むジャリジャリという音にはっきりとした二重まぶたを顰めると、手入れのしていない太い眉が分かりやすく動いた。姉とは反対に色黒だが、何かスポーツをしているわけではない。今春に中二になったばかり。帰宅部。スポーツは苦手で、学校の成績もよくない。友だちは少なく、学校帰りの古本屋で漫画を読んでいる時間が一番好きだ。「何をやらせてもダメ」というのは、本人が自覚している。浴衣の着付けだけは心得ているかと思いきや、時折胸元の裾をずらして豊満な胸の谷間に滴る汗を拭うあたりは、やはり隙だらけだった。
 
 清水玲と清水愛。この姉妹は、見た目も性格も正反対だった。
 唯一共通していたのは、父を——、養父を、嫌っているという点だけだった。
 
 孤児院から父に引き取られた頃は、姉妹ともまだ物心がついておらず、しかし生理が来るより前には、父が本当の父ではないということを、周りの反応から伺い知った。独身の男が女子ふたりを引き取ったという事案は、もちろん悪い意味で周囲の好奇の目を集めた。性徴を迎える頃には、同世代の友人・知人から性的なからかいを受けることも増えた。端的に云えば「父と姦通しているのだろう」ということだった。そのたびに、姉・清水玲は激怒し、妹・清水愛は無関心を貫いた。
 そのぶん、姉妹の絆は普通の姉妹よりも強くなったかもしれない。ふたりだけで遊ぶ時間が多かった。
 大きくなってからもそれは変わらず、この日は自衛隊基地で行われた航空祭に遊びに行った帰りだった。
 
 山口県国府市には、自衛隊基地がある。周りを山に囲まれているが、平野は瀬戸内海沿いに広く、これを国府平野と呼ぶ。山のうち一番高い山は大原山で、それでも標高は500mくらい。TV局のアンテナがあって、アナログ放送の頃は山の影にあたる地域は受信状況が悪かったりした。平野には自衛隊基地の他は、工場が多い。ヨツバ自動車にイシバシタイヤ、化粧品のカネミツ、昭和発酵。化学系の工場が多く、風向きによっては町中にケミカルな匂いが漂う。海沿いには工場で使う部材を搭載した大型の貨物船が多く並ぶ。町の南端には、津島という島があり、跳ね上げ式の橋で市街と連結されている。津島付近は遠浅の海で、名前を富海といい、夏に市内外の海水浴客で賑わう。国府で一番有名なのは、国府天神。正月には三十万人近い参拝客が押し寄せ、市内が一番の賑わいを見せる。他は、特にない。
 
 国府市という何もない街に、ふたりの姉妹が暮らしている。
 姉・清水玲が、はしゃぎすぎて転んでしまった。妹・清水愛はそれを咎めることもなく、当たり前に手を差し出す。ふっくらとしたあたたかそうなその手を、玲は握ることなく、空を見上げた。愛もその視線を追って、振り返る。
 
 青い空を、一機のブルーインパルスが、真っ直ぐに飛んでいった。残された白い雲はしばらく消えず、姉妹は黙ったままそれを見つめた。
 国府市の人にとって、自衛隊は親しい存在だった。町で見かける隊員は優しかったし、年に一度の航空祭をみな楽しみにしていたし、ブルーインパルスは美しかった。
 だから戦争が起こるなんてことは、この頃は誰も想像していなかった。

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