作・佐藤碧
『かたち』


 アクリルの薄い板にでもなった心地がした。
そうして同時に、いろいろなことに傷ついていた。
目覚めることに。父が声を掛けてくることに。腹が減ることに、自分の声音に、呼吸をしなければならないことに。
傷つく、というのは、僕にとっては赤い赤い、血潮のようなかたちをしていた。ぽたりぽたりと落ちる、鮮やかな、液体。

 ああ傷つく、と思うたびに透明な、真平らな僕の上に雫が落ちた。点々と、きれいな血飛沫のように。それが僕にとっての"傷つく"であったし、"傷つく"とはそういうものなのだと思っていた。しかしうつくしさとは裏腹にその赤は言葉にできない重たさで、僕のからだは耐え切れずに撓んでしまう。
ぎちぎちと。










 一方の彼はというと、そういう、一枚の透明な板であるところの僕をじっと見下ろしていた。
見上げる僕に、自由になる、というような言葉を彼は放った。
「自由になる?」
つまりそれは絶えずかたちを変えていくこと――そう云って、彼は両の目を白黒させはじめた。
くるぐると、こちらが呻きたくなるような目の色で、彼は低く、けもののように唸る。そうして卒然、わずかに開いた唇のあわいから、"彼"そのものを吐 出した。
ど、と衝撃が走って、僕のからだは軋んだ。
"彼"は透明な液体のようなかたちをしていた。僕の上にだだだと滴り落ちた"彼"と、僕の上に点々と散っていた赤とが、混じり合って斑になる。
ぐにゃ、とからだがうねるような感覚があった。これは、眩暈か。
僕がこれまで"彼"だと思ってきたものは、空気の抜けたゴムボートのごとく萎み、くたり、と力無く地にからだを預けている。
唖然とする僕の上を彼が這う。ぬる、ともさら、ともつかない不可思議な感触。
彼は僕の端から、ぼたりと地に降り立った。彼のからだにはぽつぽつと、赤いものが混じっていた。"傷つく"を混じらせた彼は、けれどしっかりとした口調で云う。ここにはいられない。云いながらゆるゆると地を這い、"ここ"を離れてゆく。
「どこへ行くの。」

 僕の問い掛けに彼は動きを止めることはなく、わからない、とだけ答えた。答える間にもどんどん彼は遠くなってゆく。そうして僕の視界から消え去る寸前、ふと思い出したようにこう云った。
──ひとつの場所に留まってはいけない、それが、自由ということ。






僕は自分にも"自由"がほしい、と思った。彼の透明なからだは、僕の透明さとは違って撓むことなどなさそうだ。赤をからだの内側に取り込む、"自由"。かたちを変える、"自由"。
それがほしくて、それならばきっと目を白黒させてみればよいのだろうと思うけれど、ただの透明な一枚である僕には、目というものを持たない僕には、どうすることもできない。赤い点がひとつふたつと、ただただ落ちるだけ。
 どうしようもなく。

 ぎちぎちと。








──(c) 佐藤碧 ──


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